現代では嗜好品として定着しているアルコールも、発明された当時は専ら薬品として用いられていた。そのためラテン語では『アクアヴィテ aquavitae』(生命の水)と呼ばれていた。この生命の水のことを、スコットランドとアイルランドの古語であるゲール語で『ウィシュゲ・ベアハ uisge beatha(アイルランド綴りではuisce beatha)』と言ったのである。12世紀にアイルランドを占領したイングランド軍には、この言葉が『ウイシュギ uishgi』と聞こえたと言う記録が残されている。それが後に『ウスケバア usquebaugh』となり、『ウスケ usuque』、『ウイスキー whisky』と変化していった。ちなみに現代でもフランスでは、ブランデー類を総称して『オウ・ド・ヴィー eau de vie』(生命の水)と呼び、北欧の地酒とも言うべきアクアヴィットも同じ語源だ。

 蒸留における初期の歴史についてはほとんど文献が残されていないが、最も古い所では紀元前12世紀の中国の史書に蒸留酒についての記述がある。西暦200年頃のエジプトには大麦の蒸留酒があったと記録にあるが、これこそがウイスキーの起源と言えるのかもしれない。ちなみに醸造酒では、紀元前50世紀頃のイランの壷からワインの残留物が発見されており、これが世界最古の酒だとされている。今から7000年前と言えば新石器時代にあたり、これは驚くほかない。

 そもそもスコットランド人のルーツは、ヨーロッパ大陸からアイルランドに移動して来たケルト族であり、彼等は紀元前4〜6世紀頃に海を超えてイギリス本土に渡って来たとされている。それゆえにスコットランドにおける蒸留技術は、ヨーロッパ大陸からアイルランドを経て、キリスト教の修道僧によって伝えられたと言うのが通説となっている。また他の説としては、6世紀頃に中東を訪れたアイルランドの修道僧が、香水を造るための蒸留技術を自国に持ち返り、酒造りに応用したのが始まりであるなどと言うのもある。まあどちらにせよ、僧侶達が当時の酒造技術を進歩させていたことには間違いないようだ。今日でもなおアイルランド人とスコットランド人は、ウイスキーの発祥地は自国であると言う互いの主張を譲らないが、これらの説に基づくならばスコットランドはちょっと分が悪いようである。

 紀元前5〜7世紀頃、古代ケルト人はヨーロッパ諸国の侵略に明け暮れていた。彼等は死後も魂は不滅であるとするドゥルイド教を信仰していたため、大変勇猛果敢であったという。ギリシアに攻め入ったときに、ギリシア人は彼等のことを「よそ者」を意味する『ケルトイ』と呼んでいたが、これが『ケルト』の語源であるとされている。また、かのローマ帝国のシーザーが記した『ガリア戦記』のガリアと言うのも、実はケルトのことだ。

 スコットランドでウイスキーについての記述が最初にあったのは、1494年のことだ。スコットランド王室財務記録帳なるものに、「修道僧ジョン・コールに麦芽を与え、それによってアクアヴィテを造らせた」と書かれている。麦芽を原料としたアクアヴィテと言えば、もちろんウイスキーのことである。しかし『ウイスキー』と言う言葉はまだ生まれておらず、一般的に使われるようになったのはそれから200年以上も後のことだ。また、『ウイスキー』と言う言葉が公式に認められたのは、1755年にサミュエル・ジョンソン博士が編纂した英語辞典に記載されてからだとされている。その辞典には、ウイスキーとは「香料とともに出てくる蒸留物」と規定されている。この記述は正しくないが、当時のウイスキーは熟成させずに飲んでいたため、香料等で風味付けをしていたのは間違いないと考えられている。

 1644年にスコットランド議会によって、初めて『ウイスキー税』が導入された。その後約180年間にも渡って横行した、『密造』時代の幕開けである。スコットランド人がケチであることをネタにしたジョークはよく聞かされるが、密造が行なわれた理由はそんなことではない。当時の税金には懲罰的な意味が込められており、法外な金額を取り立てていたのである。すなわち、「どうせ払えないのだから、造るのはよしなさい」と言うことだ。その頃のウイスキーは、極めて換金性の高い農産加工品だと見なされており、ウイスキーを造っていない農民などは、まずいなかったのである。数ヵ月の内に、スコットランドのほぼ全域が密造地帯と化してしまったのであるが、当然の成り行きであろう。

 1707年にスコットランドはイングランドに併合され、これを期にウイスキー蒸留税が大幅に引き上げられる。しかしこのような処置は、スコットランド人の反骨精神を呼び起こす原因にしかならなかったのである。農民たちは取り締まりを逃れるために、山の奥へ奥へと逃げ込んで行った。その結果ピュアな水源に出合えたり、ピートや大麦も豊富に得られるようになったりしたのである。現代に受け継がれるスコッチ・ウイスキー造りのノウハウは、この密造時代があったからからこそ確立されたと言っても過言ではないのだ。

 さて、樽による『熟成』と言ったものは、誰がどのようにして発見したのだろうか? 残念ながら答えになる記録は、残されていない。土中に隠していた密造酒が忘れ去られ、後に掘り起こしたときに発見されたのだと言ったようなロマン溢れる説もある。しかしその当時、貴族などの上流階級の人々は、スペインのシェリーや、ポルトガルのマデイラ・ワインなどを通じて、酒の熟成についての知識を持っていたとも言われている。それをスコッチに応用したのだと言う説もあるのだが、どうやらこちらの方が信憑性が高いようだ。

 スコットランドでは、密造酒のことをを隠語で『マウンテン・デユー mountain dew』(山の雫)などと呼んでいた。なかなか洒落た表現である。ちなみにアメリカではシニカルな揶揄を込めて『ムーンシャイン moonshine』(月明り)と呼ばれていた。闇夜に乗じて、月明りの下でしこしこと密造に励む様子なりが容易に想像でき、笑えてしまう。また『ブートレッグ bootleg』(長靴)なんて表現もある。密造者はムーンシャイナー、ブートレッガーである。

 当局の取り締まりが強化されるにつれて、南部のローランド地方では次第に密造がすたれて行く。原因は環境である。峻険な山々や、逆巻く渓流と言った厳しい環境に囲まれているハイランド地方に対し、ローランド地方はおしなべて穏やかな丘陵地帯なのである。見晴らしの良い環境で密造を行なうことには、やはり限界があったのだ。またイングランドと接していることが、密造を隠し通せなかった原因のひとつでもある。そして密造に代わる対抗策として発達したのが、テクノロジーだ。ポット・スチル(単式蒸留機)に改良を加え、蒸留効率を上げることによって対抗したのである。しかしテクノロジーとは言うものの、学術的な裏付けのない環境では革新的な進歩などは望むべくもない。蒸留時間短縮のツケは、しっかりとクオリティに跳ね返って来てしまったのである。結果ローランド・モルトの品質は劣化し、以後衰勢の道をたどることになる。

 一方イングランドとの間にローランド地方と言う‘垣根’を持つハイランド地方には、密造の温床が着々と巣くって行った。取り締まりのために政府はあらゆる手を尽くすが、徒労に終わることも度々だった。1823年、政府は現状の‘いたちごっこ’の無意味さを遂に悟り、妥当な金額の『ウイスキー製造認可料』の導入を決断する。これにより密造者や密売人は合法的に商売ができるようになり、ここに密造時代は終焉を迎えたのだ。

 当時のスコットランド人は、現代の我々では思い及ばないほど大量の酒を飲んでいたと言われている。フランス人の旅行家であったルイ・シモンは、「平均的なハイランド人は、1日に約1クォート(1リットル弱)のウイスキーを飲んでいる」と記している。多少の誇張はあるのかもしれないが、よく肝臓がいかれなかったものである。また中流・上流階級の人々は、朝にもウイスキーをたしなむほどであった。

 1831年にイオニアス・コフィと言うアイルランド人が、パテント・スチル(コフィ・スチル)と呼ばれる連続式蒸留機を発明する。これはこれまでのポット・スチル(単式蒸留機)とは違い、純度の高いスピリッツを蒸留できるものだ。雑味が少ないと言うことは、風味が軽いと言うことでもある。このパテント・スチルは、後にグレーン・ウイスキーの生産に使用されることになる。折しもその当時、イングランドではヘヴィなジンに代わる、軽い酒が求められていた時期だったのだ。これに目を付けたのがローランド地方の蒸留業者たちだ。1846年に穀物法が廃止となり、安価なトウモロコシが大量に輸入されてきた。そして、これを原料とするグレーン・ウイスキーの増産が始まったのだ。

 1853年、エジンバラのウイスキー商であるアンドリュ・アッシャーなる人物が、最初のヴァッテド・モルト・ウイスキーの製造に成功する(これが最初のブレンデッド・ウイスキーだったとする説もある)。そしてその10年後、ジョージ・バランタイン(あのバランタインの創始者である)らの手によって、モルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーとを混ぜた最初のブレンデッド・ウイスキーが誕生する。

 当時、スコッチ・ウイスキーの定義を定めた法律はまだ存在しなかったのだが、モルト・ウイスキーの蒸留業者たちはグレーン・ウイスキーの台頭を快く思っていなかった。結果的にモルト・ウイスキー自体の売り上げが落ちてしまったからなのである。不満は次第に高まり、1905年に『モルト派』の業者の訴えかけで、一部のブレンデッド業者がロンドン区議会によって告発されたのだ。これがウイスキー史上有名な、『ウイスキー真贋裁判』である。ピュア・モルト派の言い分は、「雑穀を原料とするグレーン原酒なんぞを、香り高い貴重なモルト原酒に混ぜたものなど、スコッチ・ウイスキーとして認められない!」と言うものだ。一方ブレンデッド派にも言い分はある。「現在は精留しているグレーン・ウイスキーでも、純度を落として蒸留すればモルト・ウイスキーのような香りとコクを残すことが可能だ。あえてそうしないのは、“飲み口を軽くするためにブレンドする”と言う目的があるからだ。同じ穀物であるにもかかわらず、大麦から造られたものだけしかウイスキーとして認められないのはおかしい!」と言ったものだ。結局この論争は、一審ではピュア・モルト派の言い分が認められたが、控訴したブレンデッド派が最終的には勝利して幕を閉じる。晴れてその存在を認められたブレンデッド・ウイスキーは、この一件を機に大躍進をとげることとなり、スコッチ・ウイスキー = ブレンデッド・ウイスキーと言う認識が一般に定着して行ったのだ。

 1858年から始まったフランスにおけるブドウ畑の大災害もまた、スコッチ・ウイスキーの売り上げに大きく貢献した。フランスの主だったブドウ畑が、フィロキセラ(アブラムシの一種)によって記録的な大災害を被ってしまったのだ。その結果ブランデーの在庫が底を突き、高級蒸留酒に飢えたイングランドの上流階級の人々がスコッチ・ウイスキーに殺到したのである。そんな経緯もあって、ブランデーの代用として見られていたスコッチ・ウイスキーにも、次第に‘高級品’のイメージが根付いて行った。20世紀前半は、スコッチ・ウイスキーにとってはまさに黄金時代だったのである。

 1960年から70年にかけて、ウイスキーの製造行程の一部に変化が起きてきた。多くの蒸留所では、これまで自ら行なってきた製麦作業を、外部の麦芽工場(モルトスター)に任せるようになったのである。これまで行なわれてきた伝統的な製麦法をフロア・モルティング呼ぶ。これは、あらかじめ水分を吸わせた大麦を石床に敷き、スコップで鋤き返して発芽を促すと言った、かなり手間のかかる作業なのである。現在フロア・モルティングを行なっている蒸留所は、<ボウモア> や <スプリングバンク> など、数えるほどしか残っていない。

 1980年頃から欧米の先進国を中心に、‘ヘルシー指向’が強まり出した。人々の嗜好が、よりライトなものを求めるようになり、ウイスキーのようなハード・リカーは敬遠される風潮が起こり始めたのである。実際にスタンダード・スコッチの需要は、現在頭打ちだと言う統計も出ている。しかし同時にブレンデッドに飽き足らなくなった人々の、本物嗜好が強まっていることも事実なのだ。シングル・モルトが『本物』で、ブレンデッドが『偽物』と言う訳ではないが、本物指向を自然指向だと解釈すれば、ウイスキーの原点であるシングル・モルトに人気が集まるのも自然なことだろう。かつての『ウイスキー真贋裁判』では敗れたモルト・ウイスキーだが、もはや形勢は逆転した感もある。

 今後、危惧される問題のひとつに環境汚染がある。1988年の6月、北海沿岸のイギリス、ノルウェー、デンマークなどのあちらこちらで大量のアザラシの死体が打ち上げられた。約20,000頭前後いた北海のアザラシは、わずか10ヵ月余りの間におよそ9割にあたる18,000頭近くが死んでしまったのである。死因は、ライン川やテムズ川から流れ込む産業廃水、生活排水、北海油田や船から流れ出す油だと言われている。また1993年にはシェットランド諸島でタンカーが座礁し、多量の原油が流出した。事故当時、環境が元に戻るまでには、少なくとも50年はかかるであろうとまで言われていた。このときには、もうスコッチもだめかと思われたが、自然の回復力は人間の想像をはるかに越えていたようだ。最近の調査では、原油の痕跡はほとんど認められないと言う。

 スコッチ・ウイスキーに限らず、環境が汚染されてしまったらもう酒は造れないのだ。重度の汚染に至っては、酒どころの話ではないだろう。かけがえのない地球の環境が、そして清冽なるスコットランドの環境がいつまでも保たれるよう、願わずにはいられない。


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